各企業は従業員、下請け、部品メーカーに対して危機意識をあおり、徹底した合理化、コストダウンを実施した。
企業自体が生き残れるかどうかとなれば、労働組合も合理化に積極的に協力せざるをえなかった。
中で、ガソリンを燃料とする自動車は、影響をもろに受けて、日本のみならず、世界中で自動車の買い控えが広がった。
とくに先進諸国の中でもっとも高いガソリンを買わされていた日本人にとって、石油製品のさらなる値上げは大きな負担となった。
一九六O年以来、高い伸びを続けてきた日本の乗用車生産は、石油危機の翌七四年に初めて前年度を下まわり、一三了七パーセントも減少した。
排ガス対策だけでおおわらわだったメーカーにとっては、まさにダブル・パンチだった。
トヨタでは、六0年代半ばに一応の完成をみていたジャスト・イン・タイム方式をさらに徹底させ、七Oパーセントの操業でも利益をあげられる体制を目指した。
QC(品質管理)の範囲をさらに広げ、総合化した全社あげてのTQC(トータル・クオリティ・コントロール)の活動がさかんになったのもこの時期からである。
欧米では労働組合の反対にあって導入がむずかしかったロボットも、日本の産業界では積極的に生産ラインに取り入れていった。
日本の合理化努力は徹底していただけに、二、三年ののちには早くも効果があらわれてきた。
経済評論家の多くは、一方的な右肩上がりできた日本の自動車産業も、当分は不況が続くのではないかとみていたが、予想に反して急回復を示したのである。
石油危機の翌年こそ前年を下まわったものの、二年後の一九七五年には早くも石油危機前の数字を上まわることになった、注目すべきは輸出量である。
石油危機のあった一九七三年に二百七万台だったのが、一九七四年には二百六十二万台、一九七七年には三百七十一万台へと急増して、初めて輸出比率が総生産台数の五Oパーセントを超えたのである。
中でも、アメリカ向砂の小型乗用車が圧倒的に多かった。
日本車はアメリカでプレミアムがつくほど人気となり、以後、八0年代を通じて、五Oパーセントを超えたままで推移する。
皮肉にも、石油危機でもっとも大きな打撃を受けた日本が、もっとも早い立ちなおりを見せたのである。
七0年代初頭のアメリカでは、フォルクスワーゲンをトップに日本車などの小型車の輸入が急増したアメリカ人の車を購入する際の見方が大きく変わりつつあったことを物語っていた。
小型車を購入する層も従来とは違ってきていた。
小型車を買う層といえば、価格の高いアメリカ車を買えない低所得者や、セカンド・ヵーを使うことが多かった若者や主婦たちが中心だったこのころになると、それまで使っていた大型車から、燃費のいい小型車に乗り換える人が増えてきたのである。
ベトナム戦争の泥沼化、欠陥車問題や大気汚染問題、ドルの威信低下などを通じて、アメリカの社会に変化の波が押し寄せ、浪費を誇示するようなデトロイトの寧づくりの姿勢に反感を覚える層が生まれつつあった。
とくにインテリ層は、マイカーの大ききゃ豪華さが自らのアイデンティティを示すものとは考えなくなってきた開放的で、アメリカの新しい流れを先取りするカリフォルニアで日本車が多く売れていたことも、注目すべき傾向だった。
そうした変化の波、新しい傾向にもかかわらず、汐ビッグ38の首脳は頭の切り替えができず、デトロイトでは依然として大型車の生産が主流を占めていた。
ビッグ3の社内でも、そうした新しい傾向を敏感に受けとめ、軌道修正を図るべきだと主張する人もいたが、ほんの一部にすぎなかった。
フォードの社長にのぼりつめていたのが、大ヒットした「ムスタング」の開発責任者として評価を得ていたリ−・アイアコッカである。
一九七一年、前輪駆動の小型車の開発・生産に本腰を入れるかどうかをめぐって、決断を迫られたフォード社のアイアコッカは、部下のハル・スパ−リツクに半年ほどヨーロッパをまわって、ヨーロッパ各国で出まわっていた前輪駆動の小型車について情報を集め、実際に試乗してくるよう命じた。
それをもとに、前輪駆動の小型車を開発しようとしたのである。
スパーリックはヨーロッパ各地の工場をまわったことで、大ききや豪華さ、不必要なまでの大馬力だけで競いあってきたアメリカ車が、いかに浅薄な代物であったかを思い知らされた。
新たに前輪駆動車を生産するには、生産ラインに手をつげなければならない。
小型車ともなれば、あらゆるシステム、部品も小型化し、軽量化する必要もある。
それでは設備投資があまりにも過大となり、とてもリスクは負えないというのである。
社内の反対を押し切って、スパ−リックが設計した小型車「フイエスタ」は、なんとか生産されることになったが、ヨーロッパ市場をターゲットに、スペインで生産されることになったのだった。
スパ−リックが目指したものは、単に新しいタイプの小型車を開発すればよしとするものではなく、エンジニアの復権であり、彼らが車づくりに夢をもてるようにするための試みでもあった。
新車開発をめぐる論議では、目先の利益ばかりを追う財務部門が社内を牛耳って、ものづくりの基本がないがしろにされていたからだ。
このあと、スパ−リツクは「フイエスタ」の国内版にあたる小型車を計画した。
先を見通すことに敏感だった彼は、アメリカ市場においても、大型車から小型車への転換は必至とみていたからだこのときも、工場の転換も含め三十億ドルの設備投資が必要なため、財務部門やフォード会長が猛反対した。
へンリ−・フォード二世は、それほど巨額の資金を投入してまで小型車を生産する必要はないと考えていた石油危機後の二、三年は、大型車の売れ行きが落ち込んだとはいえ、再び盛り返して、やはり人気は高かったからである。
結局、この小型車の計画はお蔵入りとなり、財務担当やフォードとことごとく対立したスパ−リツクは、解雇されてしまった。
この決定にいたる過程で、アイアコッカとフォードの対立も抜き差しならぬところにまで発展した。
社長とはいえ、しょせん、アイアコッカはフォード一族が支配する企業に雇われた身である。
一九七六年十一月、重役会議の席上、フォードからクピを言いわたされることになる。
フォードは、実力者で、なにかにつけて派手な振る舞いが目立つアイアコッカを毛嫌いしていた。
会社を乗っ取られるのではないかと恐れてもいた。
この二人はよく対立したが、経営方針の違いというより、どちらかといえば個人的な好き嫌いの感情のほうが先に立っていた。
重役会議の席上、アイアコッカが解雇の理由をただしたとき、フォードはこう答えたアメリカ自動車産業史の観点からフォードとアイアコッカの確執を見ると、単なるリーダーシップをめぐるスキャンダラスな対立というだけではすまされなかった。
そこには、アメリカ自動車産業のから進むべき道にかかわる重大な問題が含まれていた。
時代に即した道へと転換するのか、大きな岐路に立たされていたといえる。
排ガス規制、石油危機を経て、深刻な事態を迎えようとしていたにもかかわらず、フォード社の例にみられる。
ビッグ3の対応は鈍かった。
なかなか大型車の呪縛から自らを解き放とうとはしなかった。
アメリカ自身が産油国であり、ガソリンの値段が安かったからで、第一次石油危機の直前。
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